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これまでの幾多の戦いで消耗を重ねてきた日本海軍機動部隊であったが、マリアナ沖海戦での大敗北は機動部隊としての戦闘能力を喪失するほどのものであった。ここまで一方的な敗戦を喫することになったのには多くの要因が絡んでいるが、ここでは一般に広く流布している通説について紹介する。 日本側搭乗員の技量低下 上記のように、開戦当初からの様々な戦いによって熟練搭乗員は激減、その養成もアメリカに比べて大きく遅れをとっていた。意外にも本海戦に参加した搭乗員の平均飛行時間は、開戦時と比べても遜色ないレベルであった。しかし前年のろ号作戦などで一航戦、二航戦は陸上基地配備で航空戦を展開し消耗、再建時に発着艦経験の無い搭乗員の飛行訓練に時間をとられ、戦闘訓練が不足していた。また技量にも差があり、一部の搭乗員には空母からの離着艦すら困難な者もいた。特に、長い航続距離を必要とするアウトレンジ戦法は未熟な搭乗員には酷なものであった。そのため、敵艦隊と遭遇せずとも未帰還となった機体が多かった。 航空機の性能差 日本海軍の主力戦闘機零戦は、投資信託 当初こそ無敵の強さを誇ったものの、極限まで軽量化された機体であったため、搭乗員の生命を軽視し防弾装備は殆どされておらず、ひとたび攻撃される側にまわると脆さを露呈することとなった。また大出力エンジンの開発でも欧米に大きく遅れをとっていため、改良型が開発されても大きな性能の向上は望めなかった。次世代機である烈風の開発も遅れたため、この時期でも主力であり続けた零戦だったが、開戦当初のF4F ワイルドキャットに代わり米海軍の主力となっていた2000馬力級のF6F ヘルキャットに比べると機体性能は見劣りしていた。艦上攻撃機である天山は実戦配備が遅く、米軍のTBF アヴェンジャーと比べて速度や航続距離では多少勝っていたが、防弾面では他の海軍機の例に漏れず貧弱であった。このように搭乗員の質のみならず、航空機の性能面でも日本はアメリカに遅れをとっていたのである。 VT信管(MARK53型信管)アメリカ艦隊の防空システムの進化 この時期になると、アメリカ海軍機動部隊はレーダーと航空管制を用いた防空システムを構築していた。このため日本海軍機の接近は予め察知され、アメリカ軍戦闘機は最も迎撃に適した場所に誘導された上で日本の攻撃隊を待ち受けることができた。また1943年の末頃から、対空砲弾が外れても目標物が近くにいれば自動的に砲弾が炸裂するVT信管を高角砲弾に導入した。この結果、従来の砲弾に比べて対空砲火の効果は数倍に跳ね上がった[3]。 物量の差 そもそも航空戦力に決定的な差があった。日本側428機に対しアメリカ側901機と倍以上、しかも戦闘機だけで445機(数値については諸説あり)もあり、日本側が正面から決戦を挑める状況ではなかった。 NHKで放送された『証言記録 兵士たちの戦争「マリアナ沖海戦 破綻した必勝戦法」』でも言及されていたが、広い太平洋の真っ只中で何の目印もない状況で、出撃した航空部隊が母艦に戻ってくることは、敵を攻撃する以上に難しかったという。特に戦闘爆撃機として出撃した零戦は単座であったため、航法管制をする搭乗員がいないので、独力で戻ってくることはほぼ不可能に近かったといわれる。そのため、アメリカ側に打ち落とされただけでなく、位置がわからず燃料切れで母艦に帰還できなかった航空機も相当数あったようであるが、その実数は不明である。 マレー沖海戦(マレーおきかいせん)とは、資産運用 戦争の初期の1941年12月10日にマレー半島東方沖で、日本海軍の航空部隊(一式陸攻、九六式陸攻)とイギリス海軍の東洋艦隊の間で行われた戦闘。 日本軍はイギリス海軍が東南アジアの制海権確保の為に派遣した戦艦2隻を撃沈し、この方面での初期作戦上で大成功をおさめた。また、当時の「作戦行動中の戦艦を航空機で沈めることはできない[1]」との常識をくつがえし、世界の海軍戦略である大艦巨砲主義に影響をあたえた。 太平洋戦争の開始日は1941年12月8日であるが、その直前の12月2日にイギリス海軍の新鋭戦艦プリンス・オブ・ウェールズ、巡洋戦艦レパルスと護衛の駆逐艦エレクトラ、エクスプレス、エンカウンター、ジュピターからなるG部隊がシンガポールのセレター軍港に到着した。当初は新型空母のインドミタブルも加わる予定であったが、同艦はバミューダ島で座礁事故を起こして合流できなかった。12月8日の早朝、ハワイの真珠湾攻撃より70分早く、日本軍はタイ国の国境に近いマレー領コタバルに陸軍部隊を上陸させた。(大本営もこのコタバル上陸をもって、対米英蘭豪への宣戦を布告したと報じた。)この部隊は、マレー半島を南下してイギリスの根拠地、シンガポールを攻撃予定であった。 イギリス東洋艦隊(司令長官トーマス・フィリップス海軍大将)は、この日本軍マレー上陸部隊の輸送船団攻撃のため、Z部隊を編成して12月8日17時過ぎにシンガポールを出航した。 駆逐艦:エレクトラ、エクスプレス、テネドス、ヴァンパイア(この艦はオーストラリア籍) この他にシンガポールには軽巡洋艦や駆逐艦が存在したが、いずれも修理中や低速などの理由でZ部隊には加わらなかった。この時までに、米太平洋艦隊が真珠湾で受けた損害の大きさは明らかになっており、その増援は望めなかったが、チャーチル首相はZ部隊を快速の遊撃部隊として活用することを主張した。フィリップス提督は、空軍の航空支援には期待できないことを知っていたが、日本軍の空襲による危険は大きくないと判断していた。そのときまでに作戦行動中に空襲で沈められた最も大きな軍艦は重巡洋艦だった。 一方、日本海軍の戦力としてこの方面には近藤信竹中将指揮の第二艦隊があり、戦艦としては金剛と榛名があった。近代化改装を受けてはいたが、両艦とも艦齢は27年を越えており、また兵装・装甲の厚さも元は巡洋戦艦であったため、戦艦として建造されたプリンス・オブ・ウェールズよりも劣っていたため、相手として最新鋭のプリンス・オブ・ウェールズは想定されてはいなかった。また戦闘が始まったときは日本の戦艦部隊は北に離れており、海戦には間に合わず、戦艦同士の砲戦は起こらなかった。ただし後の調査で、両軍艦隊は一時プリンス・オブ・ウェールズの主砲射程圏まで接近していたことが明らかになっている。他にも重巡洋艦や水雷戦隊もあったが、砲力の外国為替証拠金取引 は如何ともしがたく、万が一の際は水雷攻撃に全力を傾けるつもりであった。いずれにせよ、8日および12月9日には敵情報が入ってこなかったことから「特に敵情に変化はなし」と判断。金剛、榛名以下の艦隊はカムラン湾に引き上げて燃料補給を実施することした。輸送船団護衛の任にあった小沢治三郎中将(重巡洋艦鳥海座乗)指揮の南遣艦隊(巡洋艦及び水雷戦隊など)も、上陸部隊を乗せた輸送船団の護衛を終えてカムラン湾に引き返しつつあった。 9日15時15分、潜水艦伊65がZ部隊を発見、以下の電文を打電した。 敵「レパルス」型戦艦二隻見ユ 地点「コチサ」[2]一一 針路三四〇度 速力十四節 一五一五 伊65は打電後も接触を続けたが、17時20分に一旦見失った。18時22分ごろに再度発見したものの、程なく見失った。小沢中将はこの報告を受け、船団はシャム湾に避退するよう命じ、基地航空部隊にZ部隊の捜索と攻撃を、そして艦隊にはただちに集結の上南下するよう命令したものの、スコールに巻き込まれZ部隊を捕捉することができなかった。前述した両艦隊の最接近はこの頃であるが、視界不良で両軍とも相手の存在に気付かなかった。また、夜になって同士討ちも発生したため攻撃を断念して北上した。一方、サイゴンでは、松永貞市少将指揮下の海軍第二十二航空戦隊が攻撃準備を整えていた。あいにく悪天候であったものの、松永少将は17時30分に陸攻(陸上攻撃機)部隊を3波発進させた。しかし、天候がますますひどくなり、やむなく松永少将は各隊に引き返すよう命令した。部隊の一部では鳥海をZ部隊と勘違いし、あわや爆撃しかける一幕もあった。 その頃、Z部隊ではスコールにも恵まれ順調に航行を続けていた。この状態を保てば、10日早朝には船団に奇襲をかけることができるだろうと判断していた。しかし、18時30分に日本の水上偵察機が複数出現し、フィリップスは進撃を続けるかどうか思案した。とりあえず、テネドスが燃料不足気味だったので単艦でシンガポールに引き返させた。5隻となったZ部隊はなおも進撃を続けていたが、深夜になってフィリップス以下司令部が検討した結果、「日本機によって発見され通報されている公算が高い」と判断。シンガポールに引き返すこととした。